人生に余白は必要? ムダなことが実は役に立つ。
公開日:2020年08月04日(火)|家族・友人
大いなる寄り道が、異質なものをつないでくれる
人生とは、無駄の連続である。
とは、よくいったものですが、考えてみれば私なんぞはかなりムダな人生を歩んできています。
いまは家業の紙器(貼り箱)製造を生業(私が3代目)としていますが、ここまで来るのに相当な遠回りをしてきました。
学生時代、大学にいくような頭もなく、普通科に行ってもしょうがないと思い、工業高校(電気科)を選びました。
小学生ときから電気工作は好きだったので電気科を選んだのですが、工業高校といえど電気工学・電子工学の専門課程は中々難しいかったです。
高校在学中は放送部に所属。就職活動時、今と違い当時(1980年代前半)は結構景気もよかった時代でした。
元々オーディオが好きだったこともあり、狭き門でしたが日本放送協会(NHK)を受けたらたまたま合格。
研修期間を経て最初、NHK大阪放送局技術部(当時)に配属されました。
他の同期の皆は、技術現業部(当時)という所謂「現場」配属です。
放送局の技術部門というと、一般的に「スタジオでカメラをふってる」みたいなイメージですが、実は技術部門はかなり範囲が広いんですね。
もちろん、花形はスタジオでの番組制作(カメラ、音声、照明など)ですが、同じ番組制作でも、スタジオとロケがあります。スタジオは、ドラマ(朝ドラなど)と思いがちですが、かなり地味な教育番組もあれば、ニュース専門の部署もあります。
特にBK(大阪放送局のコールサイン「JOBK」からこう呼ばれる)は、東京放送センターに次ぐ国内では2番目に大きな局なので、技術だけでなく各々の部署がかなり細分化されています。
技術部門だけでも、番組制作、VTR室、TOC(主調整室:Technical Operation Control Room)、局内電源管理など、一般には知られないかなり地味な部門が数多くあります。
それでもこれらはまだ「現場」ですが、私がいた技術部は「技術管理」と呼ばれる部署で、技術施設の管理を主業務にしていました。と言ってもわかりにくいですが、各種技術施設(スタジオ設備をはじめ、電波送信の中継施設など)を更新管理していました。
これらは電子機器なので、各種メンテナンスや決まった期間で順番に設備更新していく必要があります。
対応年数に応じて、それらの更新工事の設計・管理をしていました。
特に私は、主にテレビ無人中継所の電源部門を担当。非常用電源や常用電源の更新工事の設計なのですが、入局3年目(二十歳くらい)で近畿全域の無人中継所(当時、約430局ほどあり)を担当。
予算、年間約1億円くらい(35年くらい前)の更新工事を任されていました。
NHKも、思い切ったことをしてましたよね。二十歳の若造に、1億円委ねるとは。笑
あと、試験放送から本放送に切り替わるタイミングくらいの、放送衛星の地上局の運用管理が仕事でした。
そんなこんななNHK時代でしたが、同じ技術部の中では私がダントツに年齢が若く、次に若い方が40歳くらいでしたから孤立してました。
現業部に行けばみんな同世代だったのですが、技術部では一人孤独な日々でした。
周りは所謂企業戦士で「NHKのために生きている」みたいな人ばかりだったので、これもまたついていけず。笑
そのころ一人旅に目覚めて(孤独な日々の反動?)、年末年始やGWなど休暇が取れるときに日本中を一人旅してました。
そのときに出会ったのが、本当に多くの様々な背景を持つ友人たちでした。
いまだに一部の友人たちとは、30年以上の付き合いがあります。
当時はYH(ユースホステル)を使い、旅をしていました。男女ともひとり旅の人間は珍しくなく、メールもスマホもない時代、写真を撮って(もちろんフィルム)住所交換をして送り合いをしてました。文通というやつです。
今ならやることはないでしょうが、写真プリントを焼き増しして手紙に入れて送る。相手からも、同じような写真が送られてくる。
そうやって日本中に、年齢、男女、職業を問わずいろんな友人が出来ました。
おもしろかったですね〜。
ひとり旅というと「さみしい、暗い」というイメージを持つかもしれませんが、実は複数人で旅するよりも、遥かにたくさんの友人が生まれます。
あとは、誰に気を使うことなく旅が出来ます。
気に入った場所があれば、何もせずに何時間もボッーとしてたって誰も文句は言いません。
まさに、自由です。
もちろん、気の知れた友人たちとワイワイ旅するのもおもしろいです。
でもそれとは全く違った楽しみ方が、一人旅にはあります。
一人旅のおもしろさを知っているかいないかは、人生に大きな違いが生まれると私は信じています。
一見すると、大いなるムダのようですが、人を成長させてくれると思います。
出会った様々な考えや価値観の人間たちと触れ合えたことは、私にとっては大きな宝物です。
そしてNHKに入局して約3年半、様々な紆余曲折があってNHKを退職しました。
さて、そこからがまたぶっ飛んだ話が続きます。
NHKテレビ技術者から転職したんですが、今度は東大阪市にある保育園。
エンジニアから、保育士(当時は、女性の保母さんに対して保父(ほふ)と呼ばれてました)に転身です。
普通に聞いたら、意味がわからないでしょう。笑
そこで、先程の「ひとり旅」が出てきます。
当時ひとり旅してる保母さんたちが多くいて、彼女らと話してるとその感受性?にとても興味を引かれました。こちらは先端技術を扱うエンジニア、その対局といえました。
しかし、その感じが心地よかったんでしょうか?
無謀にも、友人のツテを頼って最初はボランティアから。
当然「幼児教育」の勉強もしたことがないし、ピアノだって全く弾けません。
今思うと、ボランティアでさえよく受け入れてもらったことです。
それがまた今までとは全然違う感覚(当然です)で気に入ってしまい、友人の紹介である保育園に。
アルバイトでいいので働かせて欲しいと、そのときの園長(女性)に嘆。その園長の答えは、「やるんだったら真剣にやって欲しいから、正式に職員として入って。」というものでした。
ワオ〜!! こっちもおかしいですが、その園長もおかしいですよね(すいません)。
この園長とはいまだにお付き合いがあり、毎年その保育園の運動会には「ビデオ係」としてビデオ撮影に行ってます。
とはいうものの、現実はそう簡単ではありません。
とにかく保育の基本をわかってませんし、ピアノも弾けない。
職員として在籍したのは2年間でしたが、頑張って練習して引けるようになったのは「さよなら三角、またきて四角(一日の終りに歌うあいさつの歌)」だけでした。涙
保育士というと、「子供と遊ぶのが仕事」のイメージがありませんか?
そんな甘いもんではありません。
保育園は、単に「子供をあずかる」場所ではありません。
いわば親の代わりに、子育てをするところでもあります。
保育士たちが綿密なカリキュラムを考えて、日々実行していきます。
特にそこは障害児保育にチカラを入れていて、軽度から重度障害の子供たちも受け入れていました。
私の受け持ったクラスでは、重度の脳性麻痺の男の子もいました。
しかし、障害を持った子と健常の子が一緒にいることで、思いやりや優しさが生まれたりもします。
この話をしだすと、また長〜いことになるのでここでは辞めておきます。
本当にいろんなことを学ばせていただいた、2年間の保育士生活でした。
そして、これからさらにぶっ飛びます。
保育士を辞めた後、今度はカナダのバンクーバーに移り住みました。
?????
もっと意味が、わからなくなってきましたね。
これも一人旅の影響ですが、バックパッカーでヨーロッパとか行ってみようか思ってたときのことです。
私の友人(旅仲間)が、オーストラリアにワーキングホリデー(オーストラリア・カナダなど日本との協定で一定期間、アルバイトをしながら現地に滞在できるプログラム)で1年間滞在して帰国したばかりの女性がいました。
「海外に住んでいた」が気になって、彼女から話を聞きました。
当時、私は海外旅行をしたことがなく(国内ばかり)、英語もまったく出来ませんでした。
でも彼女の話を聞いて、ここでもまた無謀にも「海外に住んでみたい」と思いはじめました。
ま〜、ねっからのアホなんでしょうね。
何にも、考えていません。
何事も頭で考えるより、まずはやってみないと気がすまない質なんでしょう。
ワーキングホリデー・ビザを習得し、カナダのバンクーバーへ。
理由は、英語圏で気候も比較的温暖(真冬でも、気温はマイナスにはなりません。夏は湿度が低いため、過ごしやすい)。
そしてワーキングホリデーでオーストラリアに行ってた友人が、今度はバンクーバーに行くということで、一人でも知り合いがいればちょっとは安心。
そんなんで、バンクーバーに渡りました。
はじめての海外が旅行ではなく「住む」んですから、たぶん頭が単細胞なんですね。
最初から「住む」と決めて行ったのはいいですが、それはそれは大変でした。
今思うと「よくやった」というか、きっと頭がおかしいですね。
とにかく困ったのが、やはり言葉(英語)です。
学生時代から英語が嫌いでまともに勉強をしなかったですが、もうちょっとちゃんと勉強しとけばと思ってもあとの祭りです。
しゃべることは当然出来ないですが、何と言ってもキツかったのが「相手の話すことが全くわからない」ことです。難しい話じゃなく、多分ごく日常的な簡単なことをしゃべってると思うのですがそれがわからない。
意味がわからないよりも、まずは英語の「音」が取れないことに衝撃を受けました。
例えばマクドナルドでハンバーガーを注文し、お金を払ってお釣りを数えながら渡してくれるんですが、その「数字」すら聴き取れません。
耳が英語の「音」に慣れるのに、かなりの時間がかかりました。
そして「音」に慣れると、今度は「意味」がわかりません。
ボキャブラリーがないので音は何となく取れても、相手が話す意味がわからないのでどうしようもありません。全神経を集中させて相手の話を聞いてその1/10も意味がわからないので、こちらも何を言っていいかわからない。当然、そうなると会話として成り立ちません。
これは、ホントに苦しかったですね。
いままで日本国内では一人旅をたくさんして、さみしく感じることはたまにありましたが、これほど孤独感を感じたことはありませんでした。
言葉が通じないというのは、これはもう孤独感を通り越して「恐怖」でした。
それは今でも、鮮明に記憶の中にあります。
こんなことで、ここ(バンクーバー)でやっていけるのか?
暮らしていけるのかと。
そんな感じが何ヶ月か続きましたが、友人の紹介もあってカナダ人の友達も少しづつ出来ました。
英語は相変わらずダメでしたが、一つ救いだったのがカナダが移民の国だったからです。
カナダの総面積は日本の約27倍、当時の人口は日本の約1/4程度。国土に対して圧倒的に人間が少なく、そのため移民政策で、中国人やインドなど東南アジアから多く来ていました。
若い世代にも移民で来た人が結構いたので、「英語ができない」ことに感情移入できたのです。
そして中国など、アジア系カナダ人の友人がたくさんできました。
当時カナダの物価は安く(現在は相当上がってます)、しょっちゅう友人たちのご飯を食べに行ったり。
市内中にテニスコートがいっぱいあり市民はすべて無料で使えたり、とにかく遊ぶことや生活にはあまりお金がかかりませんでした。
最初の仕事は英語が出来ないせいもあって、日本食レストランの皿洗いから。
たしか時給4.5ドル(当時のレートで、1カナダドルがおよそ100円)に、チップを若干もらえる程度。
月の収入が約600ドル(約6万円)ほどでしたが、贅沢はできませんがそれでも生活は出来てました。
いい国ですよね〜。
ビザの関係で一旦帰国して、ワーキングホリデービザを再取得して再びバンクーバーへ。
その頃には、英語も最初よりはほんの少しわかるようになり、カメラマンの仕事を得ました。
ひょんなことから現地の写真スタジオの人(韓国系)と知り合い、私が使ってたカメラ(CONTAX)を見て「お前はプロのカメラマンか?」と聞いてきました。「いや違う。ワーキングホリデービザで日本から来ている」と話すと、ウチで働かないかとオファーをもらいました。
聞いてみると、日本人団体ツアー客の記念写真を撮ってるので、そこでカメラマンをしないかと。
結局そこで働くことになり、晴れた日は毎日スタンレーパークという大きな公園で記念写真を撮ってました。
最初に時給の話になったのですが、日本なら「じゃー、時給は○○円ね。」となるところを、「お前はいくら欲しい?」と賃金交渉から始まりました。大袈裟に言うと、プロ野球の年俸交渉みたいなもんです。
西洋って、アルバイトでも賃金交渉から始まるんだとちょっとした感動。
はじめは遠慮してたんですが、慣れてくると「来月から○○ドルにして欲しい」と自分で交渉してました。
皿洗いのときはずっと時給「4.5ドル」だったのが、カメラマンでは最終的に「8ドル」までしてもらいました。
最近の会社はこんな交渉をするのかわかりませんが、昔の日本ではプロ野球の世界みたいなもんです。
これだけでも、いい経験をさせてもらったと思います。
そして何より、カナダでもたくさんの人に恵まれました。
英語は全く上達しませんでしたが、それでも多くの友人が出来ました。
アパートを一緒にシェアしてたジョンやグレイス、いつも遊んでくれていたジョニー&ジュディ夫妻。一時期ホームステイさせてもらってたバレリー&デイブ夫妻。彼らとは、30年以上経った今でも友人で連絡を取り合っています。
カナダという西洋社会で暮らしたわずか1年半ですが、まさに何ものにも代えがたい経験をさせてもらいました。東洋と西洋という全く文化が違うところで暮らせたことは、ほんとうに素晴らしい経験でした。
これらはテレビや本で得た知識ではなく、自分の頭と体で体感したことです。
これらは、お金では買えません。
経験した人間にしか、わからないことです。
それが出来たのは、自分がアホやったからでしょうね。
賢い人なら、こんな無謀なことは絶対しません。
そこは、自分のアホさ加減をちょっと褒めてもいいのかもしれません。笑
箱屋にたどり着くまで、こんなとんでもない遠回りをしてきましたがこれでよかったんでしょう。
いまは、そう思えます。
その遠回りの時間を、もっと貼り箱やブランディングやマーケティングの勉強をしてたら、もうちょっと偉くなってたかもしれませんが(頭わるいからきっと無理)、この遠回りというムダがあったからこそ、いまの自分があるんだと思います。
人生の余白。
遠回りが今、本当に役に立ってますから…。
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1990年ワーキングホリデーにてカナダ・バンクーバー在住時に、日本人観光客ツアー集合写真を撮影する仕事をしていたときに、地元新聞「The Vancouver Sun」の取材を受けたときの記事とそのとき撮っていたツアー集合写真です。